親が望む親孝行、子が思う親孝行
約1年ぶりに、両親が東京へ来ました。
2日間、お墓参りと、はとバス(初めて乗りました♪)での小旅行にお伴しました。
二人ともすっかり歳を取り、杖が必要です。
心もとない歩き方で、しかも人混みの中を、それぞれ勝手な速さで歩きます……
(私の協調性のなさはDNAだったのかと納得)
あまり歩けないのに、なんでこんなにいっぱい歩くツアーを選んだんだろう……と疑問を感じつつ、
階段がいっぱいの神社やお寺に代表でお参りしたり(ああ、でも昔って、お参りに行くのも大変だったから、こんなふうに代表でお参りに行く人がいたんだよなぁーとか、ぼんやり思いながら・・・)
当然のことながら、身体的・精神的にいろいろとサポートが必要で、気を遣うことも多く、
普段やり慣れないこともあって疲れましたが、二人はとても喜んでくれて、私も嬉しかったです。
二人の望むような「親孝行」が少しはできたのかなあ、と。
「親孝行」って、親が子に望むそれと、子が思うそれとは、必ずしも一致しないのですよね。
私は以前、両親が望む「親孝行」に応えることができずに、「私は親不孝な娘だ」と思い込んでいた時期がありました。
でもふと、私は娘に対しては、両親が望むような「親孝行」をちっとも望んでいないことに気づきました。
それからは、そもそも私は両親にとって「親孝行ないい子」でいたいのか?とか、
また反対に、私は両親に対して「親としてこうあってほしい」という押し付けをしていないだろうかと自分への問いを続けました。
そうして、そういう思い込みをいろいろやめてみたら、両親との関係がずいぶんと良好になったように思います。
もちろん、両親が老いて(特に父が)気弱になったことも大きく影響していると思いますが、少なくとも以前より互いを尊重していることを実感しています。
私は、両親が望む親孝行はほとんどしていないかもしれないし、これからも両親の期待に添えることはできないかもしれない。
でも自分が思う、一番の親孝行はしているつもりです。
それは自分が健康で、自分らしく生きていること。
私も親なので、親として娘に望む親孝行があるとしたら、とにかく健康で、娘が幸せだと思う暮らしをしていること、でしょうか。
「幸せ」の概念すら、親と子では違って当たり前ですからね。
娘自身が本当に幸せだと感じているなら、それを尊重したい。
私がもっと歳を取って健康やらに不安を感じるようになれば、もしかしたらその思いも変わるのかもしれないけれど、いつでも、できるだけ子に対しては無欲でありたいと思います。
親が望む「親孝行」に応えることが、子として当然の事だと考える親がいれば、それに応えようとして、できない自分を「自分は親不孝だ」と責めたり悩んだり、あるいは、がんばってそれに応えようとして我慢したり無理をして苦しむ人も、程度の差はあれ、少なくないでしょう。
家族はそれぞれ違うものですし、様々な事情もありますから、親のいうことなんて無視していいよ!などと一蹴するつもりはありませんが、親の望み(期待)と自分の望みを、たまにちょっと俯瞰で眺めてみるのって、とてもいい。
もしかしたら、しんどいと感じている「親の望み(期待)」すら、子の思い込みだったりするかもしれません。
また、私がかつてしたように、子(自分)も親に対して自分の思い(エゴ)を押し付けていないか、たまに眺めてみるのも、とてもいい。
親子は(一緒に住んでいればなおのこと)気づかぬうちに互いのスペースに踏み込んでしまうことが多々ありますから。
意外と、子も親に対して、自分の思いを押し付けていたりするものです。
「もう今年が最後」と言いながら何年も、東京を訪れている両親。
今回が本当に最後かもしれないし、また来年、さらにヨタヨタしながら来るかもしれない。
どちらでもいい。
投げやりに言っているのではなく。
どちらであっても、子として私はそれを受け容れたい。
笑顔で手を振りながら、両親と別れて、そんなことを感じていました。