「めんどくさい」ってなんだろう
日曜日は、およそ2か月ぶりのAFP月ごよみでした。
2か月とは思えない、みんなの変容っぷり!
実生活で女性性の力(フェミニン・パワー)を味わっている=AFPを体現している
ということが、その存在感ですぐにわかります。
一人ひとりの姿。
彼女たちから発せられる言葉。
その一つひとつにも美しい存在感が感じられます。
聞いているだけでも滋養になる……そんな感覚です。
そのすべてを味わいながら、
ああ、今日まで生きててよかったー
AFPやっててよかったー
女に生まれてよかったー
と、数年前なら感じられなかったかもしれない歓びを
今回も4時間半、全身全霊で感じまくっておりました。
今回のプラクティスの中で、何度も出てきた言葉がありました。
『めんどくさい』
今や誰もが、口ぐせのように使っているように思います。
私も無意識的に、よく言っています。
でも、少なくとも私が若い頃は、そんなに言って(聞いて)いなかったような気がするのです。
自分が歳をとったから?
とも思ったけれど、それだけでもなさそうです。
むしろ今は若い人の方が、よく言っている気がします。
娘世代は、『めんどくさい』を略して『めんどい』と言います。
(大阪だけかもしれませんが)
『めんどくさい』って言うのも、めんどくさいの?
って、ツッコミたくなります。
プラクティスのシェアの時、あまりにも頻繁に登場するものですから、
少し時間を取り、自由に話してみました。
どんな時に『めんどくさい』って言葉が出てしまうのだろう。
目の前にある問題を投げ出してしまう時…
何かをしようとしない自分への言い訳…
クリアにならないことを、ま、いいか!と済ませ終わらせたい時…
『めんどくさい』という言葉が出てくる。
うん、うん。そうねー。
でもそれが『本当に面倒なこと』つまり、時間や手間がかかる大変なことなのかと、あらためて思うと、決して、そうじゃないのです。
(むしろ、今の方が何かと便利)
ついつい、言い訳のフレーズとして使っている。
「もういいわ。」みたいな感じで。
・・・なんだろう、この『めんどくさい』の正体は。
私が感じたのは、
「流れを乱された時」
今って、忙しいでしょう。
便利になればなるほど、みんなが、時間通り、一日中流れるように動いている。
できるだけ、止めないように、滞りなく。
でも、それは自分のペースじゃない。
社会の、誰かのペースに、常に合わせている。
それだけで、とてもストレスを感じます。
ついていくので、いっぱいいっぱい、なのかもしれません。
私たちは普段、自分のペース、自分の流れで生きることが、とても難しい。
また、そのように生きるには、膨大な量のエネルギーが必要と感じています。
まるで川の流れに逆らうような感じ・・・
(本当はそんなことないのだけれど)
だから感情とか、いろんなスイッチをオフにして、流されることに甘んじてしまう。
けれど、その流れを、乱したり止めたりする「何か」が起こると瞬時に反応が起こります。
ちょっとでも乱されると「チッ」て思ったり、思われたり。
駅の改札でモタモタしたりエラーになると、途端にそんな雰囲気になりますよね。
私にはあの光景が『めんどくさい』の象徴のようにも思えます。
もしそうだとしたら。
『めんどくさい』って、本当の自分じゃ無くなっていく習慣とも言えますね。
私たちは、日常的に、自分自身を、自分の本当の望みを
無視しているのかもしれません。
こんなことを、自分に対しても、日常的にしているんだろうなって思います。
いかに、現実から、自分自身から、目をそらす生き方をしているのか・・・
今度『めんどくさい』って言いたくなったら
…いや、たぶん言っちゃうな、言った後にも
とまって感じてみよう。
『今、私の中で、何が起こってる?』
って。
大事なのは、
その瞬間の自分の状態を感じ取ること。
本来の自分のスペースに戻ること。
いま、自分がどうしたいのか、感じてみること。
決して、
『めんどくさい』って言った(思った)自分にダメ出しすることじゃない。
『めんどくさい』って言っちゃダメ!って、自分に制限かけることじゃない。
今回のAFPのクラスで気づくことができた、大切なこと。
ひとりでは気付けなかったかもしれません。
オープンに自分の思いをシェアできる場があるというのは、
いつでも、幾つになっても、ありがたいことだなと思います。
AFP月ごよみ、次回は12月10日『大雪の集い』です。
クリスマスが近いので、今年もアレ、やります♪