ドラマにしない〜高野山の旅・前書き続編
前回の話のつづきです。
前回の記事 『折り合いをつける〜高野山の旅・前書き』
数か月、問いを観察し続け、ひとつの答えを得たとき、
私は、これまで自分がさまざまな経験をしてきたことに、深く感謝しました。
問いそのものを、またはその答えを、
自分へのジャッジや、自己憐憫、ドラマティックに演出したりせずに済んだからです。
「ああ、私はかわいそう。」
…とか、
「周りのジャッジを気にする、私はなんて臆病なの!」
…とか、
「やっぱり私が悪いんだ・・・」
…とか。
ここには浸っていたくなかった。
ジャッジやドラマに入ることは、別に悪いことではないと思います。
けれど、自分を必要以上に責めたり、憐れんだり、妙なドラマに入ってしまうことを「しない」ほうが、そこにどっぷり浸かることなく、早く抜け出せる。
ちょっと厳しい見方をすれば、ジャッジも自己憐憫もドラマも、そこに浸ってしまうことで、
本当に見るべき事実から目をそらす
問いの本質をはぐらかすことにもなる
と、私は思います。
ただ、振り返ると、私と彼のパートナーシップがUnhealthyだと思い悩んでいた時、私はちょっとドラマに入っていたかもしれません。
もし、そのままドラマに浸っていたら、答え=気づきは得られなかった。
自分の内側に問いを持ち続け、
少し距離を置いて、
興味を持って、
ただ見続ける。
これができるのは、これまで私が経験してきたことが糧となっているからです。
決して喜ばしいとは言えない経験ですら(むしろその方が、かも)生きる智慧となっていて、今の私にはすべてが貴重な財産。
自分の中で折り合いをつけて、すっきり腑に落ちたからか、
私と彼のパートナーシップがHealthyであるかどうか、もはや気にならなくなってしまいました(笑)
「Healthyであるかどうか」も、ジャッジだもんね、たぶん。
でも「Healthyであること」は大切にしようと思います。
世間一般の倫理観や、社会常識や、
レイチェル&ダータの価値観ですらもなく、
自分の価値観でね。